「ふえっ……」
 僕がケイからぬいぐるみを奪った瞬間、彼女の体が突然力を失い、その場にしゃがみこむ。
「ここ、どこ? ホタル、怖い……」
 ぬいぐるみを失ったケイは、ホタルとなってまた泣き出した。

「ホタル、君が見たいって言ってた景色だよ」
 しかし、ホタルはしゃがみこんだままだ。
「暗い……、怖い……」
 僕が言い聞かせても、ホタルは泣きじゃくるだけでちっとも景色を見ようとはしなかった。
「ほら、立たないと景色は見えないよ。ホタル、怖がらないで」
 僕はホタルの手を掴む。
「嫌っ、触らないで!」
 その手は無下に払われてしまった。
 そしてホタルはしばらく僕の顔を見つめ、こう言った。
「あなたは、誰?」

 えっ、僕のことを覚えてないの?
 おんぶしてあげて、それから一緒に手を繋いで街を歩いたのに……。

 愕然とする僕をよそに、ホタルはおどおどしながら泣き続けている。
「無くしちゃった、大切なものを……」

 泣きたいのはこっちだよ。
 僕のことをお兄ちゃんと呼んで慕ってくれたホタルは、永遠に失われてしまったんだ。
 ケイがぬいぐるみを取り戻した時に。

 ――記憶。

 口にするとたった三文字の言葉なのに、なんて大切なものなんだろう。
 この期に及んで、僕はようやく自覚した。
 僕は、ホタルに綺麗な景色を見せたかったんじゃなくて、綺麗な景色を見せてくれた男性として僕のことを覚えていてもらいたかっただけなのだと。

「はぁ…………」
 手すりに寄りかかりながら、僕は長いため息をつく。
 これからどうすればいいのだろう?
「こんなに綺麗なのに……」
 目の前のホタルは、怖がって景色を見ようとしない。
 会いたかったホタルとは全く別人なのだ。
「僕は……、僕は……」
 それならば。
 この景色は、僕のことを覚えてくれる女の子と一緒に見たい。

 泣きじゃくるホタルを見ながら、僕は決意をする。

「ホタル、ちょっと立ってくれないか? 君が無くしたものをあげるから」
「ふえっ? 何? 見つかったの?」
「そうだよ、大切なものが見つかったんだ」
 それは、僕にとっても大切なもの。
「誰だか知らないけど、ありがとう」
 ゆっくりと立ち上がるホタル。
「ちょっと景色を見てて。今、準備するから」

 ――これでいいんだよな。

 僕は自分に言い聞かせると、展望台からの景色に目を向けるホタルの手に、そっとぬいぐるみの猫を持たせてあげた。


 >つづく