「いや、ダメだ」
 そこで僕は思い留まる。
 
 それって、ものすごく卑怯なことなんじゃないか?

 ぬいぐるみの猫を手放すと、記憶を失ってしまう女の子。
 そう思い込んでしまい、実際そうなってしまう病気だからだ。
 その弱みに付け込んでホタルと仲良くなっても、意味のないことのように僕には思えた。

 それに、ケイの一週間分の記憶が無くなってしまうじゃないか。

 このままぬいぐるみの猫を手放したまま一週間が過ぎてしまうと、ケイの記憶は失われてしまう。
 一週間分のケイの努力、そして綾小路桃太郎とのロマンス。
 それ以上に無くなって欲しくないのは、エレベーターの中での僕との記憶だった。

 僕は思いを新たにする。
 だから返さなくちゃいけないんだ。あの猫のぬいぐるみを。
「ホタル、あったよ」
「ふえっ? 何が?」
「とても大切なものが」

 それを返したら、目の前に居るホタルは消えてしまうかもしれないけど。

「よかったね、お兄ちゃん」
「ああ、よかった」
「ホタルの探し物も見つかるといいな」
 僕の探し物は、ホタルの探し物でもあるんだけど。
 そしてそれは、ホタルの存在そのものを消してしまう。
 僕は複雑な気持ちのまま、ホタルを背負う手に力を込めてゆっくりと非常階段を降りた。

 非常階段の出口は、通りから見えるところにあった。
 いくら甘えんぼのホタルとはいえ、体は立派な女子高生だ。ホタルを背負っている姿を通りから見られるのは、なんだか恥ずかしかった。
 僕はホタルを背中から降ろし、手を引きながらぬいぐるみの方へ向かう。
 しかしホタルは一向に動こうとしない。

「ほら、ホタル。探し物があったよ」
 それでも、ホタルからは何も反応がない。
「どうしたんだよ、ホタル……」
 振り返ると、彼女はうっとりと通りの景色に見とれていた。

 >つづく